制御可能であるという安心
読書と編集 千葉直樹です
コックピット
まずはこれを見てみよう。
コメントに、「左は宇宙飛行士、右は乗客」ってのがあって、ちょっと笑ってしまった。
僕が好きなのは左だ。
なんでだろう?と考えてみた。
それはあらゆるものは制御可能でなければならないという信念なのかもしれないと思った。
コンパネを開きまくる
長女・長男がまだ幼稚園に入る前のことだ(もう25年位まえか)。
うちにはインターネットにつながったMacintoshが確か二台あって、ゲーム機もその頃の主流のものはだいたいあった。
子どもたちにはこれらを好きなように使わせていた。
ソフトウエアを入れたメディアがフロッピーからCD-ROMに移り始めた頃で、MacintoshでCD-ROMのアプリケーションを使うのが当たり前だった長女は、別の部屋に大量にあった音楽CDを持ってきて、「これを見たい」と言った。これからはそういう世代なのだなと思ったものだった。
長男はというと、やたらとアルファベットが好きで、あっという間にローマ字を覚えたところだった。本棚に置いてあった「Pascal ABC」という本を引っ張り出して眺めたりしていた。Pascalがわりとメジャーなプログラミング言語だったということを知る人は今はあまりいないかもしれないが、僕が学生の頃はUCSD P-SystemというパソコンOSがあって、それはPascalで書かれていた。OSの大半の機能が一つのプログラミング言語で書かれているというのはひとつの理想を表している。
長男は、Macintoshを触り始めると、コントロールパネルのあらゆるアイコンを開いていじっていた。アプリケーションにはあまり興味を示さなかった。
ゲーム機でゲームを動かしたときも同様で、ゲームそのものより設定をいじることがおもしろいようだった。
コンパネもゲームの設定も、操作すると何かが即座に変わるものがある。アプリケーションはその世界観の中で決められた操作をすることで進んでいくけれど、その操作自体が設定で決められた法則に縛られている。まあざっくりそう考えることができる。
たぶん、より根源的な部分を操作することを好む人というのはいるのだろう。
制御可能であること
僕はITの世界でものを考えるのが好きなのだが、あまり多様な世界をITにマッピングするということが好きではないなと思う。もちろん、現実の世界は多様性だらけだから、そこでうまく動くなにかを作ろうとしたらそういう状況に対応しなければならないのだが、個別に対応するモノが場当たり的であることに大きなストレスを感じるのである。
社会の複雑さと比べれば取るに足らないものではあるけれど、ITもある程度複雑なものである。ただ、動作原理は一貫していて、大本に戻ってみると要するにとんでもない数のスイッチがとんでもない速さでガチャガチャ動いているだけである。
これまで技術に携わってきた人々の努力によって、そのスイッチガチャガチャの世界は上手に隠蔽され、抽象化され、目の前にある程度使いやすい道具として存在しているけれど、この根源的な世界を認知しているかどうかがITを上手に使えるかどうかの境界を作っているような気がしている。
UCSD P-Systemは、パソコンのハードウエア・ソフトウエアのあらゆるものが一つのプログラミング言語で制御可能であるという理想を追い求めていたものである。その理想の根本はSmalltalkで実装されたどこでも触って変えることができる機械であったかもしれない。
最初に紹介したスペースシャトルのコクピットのおびただしいスイッチは、自然の世界で起きる予測不可能な問題に対応できるように、シャトルのあらゆる部分を直接制御するために据え付けられたものなのだろう。
美しさを考えたとき、ドラゴンのコックピットはすでにコックピットではないくらい美しいが、人間の小さな力で自然に抗おうとする必死さが表現されたシャトルのコックピットにも美しさを感じる。そこには制御可能な安心感という一貫した設計が見えるからなのではないかと思う。
僕がエンジニアとそうでない人を見分けるとき、より根源的なモノに目が向くかどうかということを基準にしている。
機械が好きとかきらいとかそういうことではない。根本をきちんと掘り下げて設計ができる人をエンジニアと呼びたい。
ふたつの対象的なコックピットを眺めて、そんなことを考えた。
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