一応保存のコピーは諸悪の根源
読書と編集 千葉直樹です
紙文化の悪いところ
Copyrightなんて言葉があるくらいだから、ドキュメントをコピーするというのは昔から行われてきたことだ。写経も、そもそもはたくさんの人にお経を読んでもらうために手書きでコピーを作る行いを尊いものとして供養のカタチになったものだ。それだけコピーというのは僕たちの日常に染み込んでいるということなのだ。
だから、無意識のうちにコピーを行い、それをなんの問題意識もなく使っている事が多い。
今回僕が問題として取り上げるのは、別に著作権がどうこうという話ではない。
文書(プログラムも含めて)を保存する意味でコピーを作ることについて考える。
Excelでシートを作っているとき、よくやることがあると思う。
あ、これなにかのときのためにコピーをとっておこう。
だいたい「なにかのとき」は起きない。
結果として、謎の似たようなExcelファイルがたくさんできる。
中身が謎だからなかなか消すことができない。
フォルダの中がぐちゃぐちゃだったり、デスクトップが汚くなったりする原因になる。
バックアップを取るという考え方は悪くない。でも、それはたくさんコピーをとっておくということなのだろうか?きちんと意味を考えてコピーを作っているだろうか?
版管理って知ってますか?
版を管理する
そもそも「版」てなんだろう?
辞書を引いてみよう。コトバンク「版」。
(1) 印刷にあたって,印刷インキなどを紙などの被印刷体に転写させるための面をもつ用具。 (2) 版木。 (3) 一つの版から印刷された書物の総称。最初の版で印刷されたものを第1 (初) 版,改訂,増補などを加えるに従い第2版,第3版などと呼ぶ。 (4) 書物の装丁や用紙の相違による区別。保存版,普及版など。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
(1)と(2)に着目しよう。そもそも印刷するために作られた版木から生まれた言葉のようである。
ここからは僕がこれまで博物館などで見てきた知識による推測である。
活版印刷ができるようになってからのことを考えよう。
ある文書(もちろん本も含まれる)を印刷するための「版」を作るということは、原稿を見ながら活字を一文字一文字拾って、文選箱という箱に詰めていく作業だった。
想像できると思うけど、一文字ずつ活字を拾っていくのだから大変手間のかかる作業である。これを一旦印刷機にかけて、印刷したものを人が見て、間違いを探して修正する。これもとても大変な作業で、校正はたぶんこの作業のことだ。そして、修正したものを見ながら、「版」の活字を組み替える。そうやって出来上がった「版」はすごいコストがかかっているわけだからとても大事である。
本は、こうやって組まれた「版」のセットから作られる。これで大量に印刷できる。これを出版と言う。もちろんある程度まとまった数を印刷しないと割に合わない。
人気のある本はまた後で印刷するかもしれないから、「版」を保管しておく。
印刷した本の在庫が無くなってきたら、もう一回ある程度の数を印刷する。それは「2版」とされる。このとき、最初の印刷である「初版」に追記をしたり、出版後に見つかった誤りなどを修正することもある。
で、よく売れる本は、どんどん版数が上がっていく。もちろん、印刷する元の「版」はその間維持される。
これはもう売れないなあとなった時、「絶版」になる。今は流通とか著作権的な意味で使われることが多いが、たぶん昔は「版」自体を壊すということを行ったのではないかと思う。バラバラの活字に戻して活字を再利用することはできるからである。
まあ、こんなわけで、「版」はとにかく管理が必要なわけである。
プロの仕事と素人の仕事
この「版」の管理、もちろんプロがやっていた。
素人である我々には関係がなかったから、なんとなく言葉を聞いたことがあるという程度で深く考える必要はなかったのである。
プロがやっていたのは、そのコストが大きかったからである。それでメシが食えたということだ。
さて、現代はどうだろう。
ちょっとした文書とか、本とか、ITによって素人が作れるようになった。それをコピーするのがとんでもなく容易になった。
素人の我々は、文書を適当に作ってしまう。適当にコピーを作って管理しない。まあ、それはそれで役に立つのだからいいという考え方もあるだろう。
その結果、謎のコピーが氾濫することになっているのである。
コンピュータのソフトウエアを作る人々は出版の人ではないから、そもそもそういう管理の習慣を持っていなかったということもある。
それでも、ソフトウエアは変更が重要な意味を持つことがあるから、きちんとバージョンを管理しようという考え方ができた。
30年以上前のことだが、僕はVAX-11というDECのミニコンピュータではじめてそういう機能を体験した。
それはとてもシンプルなもので、エディタでソースコードをいじってセーブしたら、自動的に修正前のファイルが名前を変えてずっと前のものまで残されるというものだった。
就職して、汎用機を触るようになっても、同様の機能は無かったような気がする。いやあったのかもしれないが、周りの誰も使ってはいなかった。だから、ソースコードの謎のコピーが山ほどあったものである。
今は、ソースコードを管理する高度なツールがあって、自動的に修正記録がとられ、意味のある修正にはきちんとその修正の意味についてコメントを残すことができる(というかのこさなければならない)ようになっている。
これは、プロがやっていた「版」の管理を自動化したものと言って良いと思う。
それはプログラムを書くというプロのための機能でしょう?という人もいるかもしれない。
実は、最近のワープロとかスプレッドシートにはきちんと「版」を管理する機能がついているのである。
気づいている人は気づいていると思うが、最近のこの手のオフィススイート、クラウド化が進んで、以前あった、「保存」を行わなくてもよいようになってきている。自動保存が行われていて、書きっぱなしでいいのである。
自動保存は便利なようで、ちょっと困ることもある。間違った修正をしてしまったというときに戻せないような気がしてしまうことである。このへんがよくわからないからコピーを作るという人もいるかも知れない。しかしそれは本末転倒である。
自動保存は履歴として残されている。理論的には過去のどの時点にでも戻れるようになっているのである。
「理論的には」というのは、もちろん履歴を残すためにはリソースが必要だから、リソースが許す限りという意味である。
ということは、自分の安心のために一応コピーを作っておくという必要は本来ないのである。
文書が意味のある派生的な分岐をするときにだけ、コピーを作ればよいし、それにはそれがわかるきちんとした名前をつけて正式化する。その文書はその時点でコピーではなくなることになる。
正式な文書は履歴とともに更新を続けていけばよいのである。
少し話がややこしいと思うかもしれないが、素人も「版」を意識することで効率の良い仕事につながる。
これは実はとても大切なことだ。オフィスワークの生産性向上を妨げているのは謎のコピーを蔓延らせているからであると言って過言ではないからである。
正式な文書はひとつあればいい。それを必要な人が参照し、権限を持つ人が修正する。参照も修正も記録が残る。そういうシンプルな考え方をする事ができれば、オフィスワークは一気に生産性が向上する。
そのために必要なのは、「版」について理解するということなのである。
これはたぶん今までの学校では習わない新しいリテラシーなのだ。
僕がやりたいこと
こういう今まで誰もが持っているとは言えなかったリテラシーがITによって必要になったので、それをもっとたくさんの人に持ってもらうことで社会全体の生産性の底上げに貢献したいと考えているのである。
それを象徴的に「読書と編集」という名前に託した。
まだまだ説明が足りないと思うから、事あるごとに話していきたいと考えている。