結論がない文章を書くのは難しい
読書と編集 千葉直樹です

役に立つ文章はつまらないことが多い
役に立つ文章ってつまらないことが多いと思うんです。別に受けを狙っている文章じゃないから当然なんですけど。
つまらない文章が役に立つ文章かと言うと、これは当然違いますね。
まあ、この辺のお話が、「文章を書く」ということについて語られていることが多いような気がします。
役に立つ文章を書く技術は、面白さも含めてそれ自体がとても役に立つものです。これがちゃんとできると「仕事ができる」と評価されることが多いでしょう。
でも、ちょっと待て。僕たちはあまりにも「起承転結」フレームワークに頼り過ぎではないか?
とたまに思います。
結論ありきで文章を書くと、まあまあそれなりにまとまるものですよね。そういうフレームワークを知っていることはとても大事です。第一わかりやすいし。ちゃんと読み手に寄り添っている感じがする。
でも往々にしてそういう文章から「押し付け」を感じることが多い。いや、いいんです。これはとにかくこうなんだって言って、きちんと読み手を説得する文章は有用ですから。
でもね。そうじゃなくてもいいと思うんです。
「結論を先に書け」は「考えさせるな」って意味です
これ、大事なんですよ。ビジネスでは。スピードが求められるから。
でも、僕はここに一抹の不安を覚えるんです。
世の中って、そんなにスピードのあるデシジョンを求められることばかりなんだろうか?
いや、そういうデシジョンができる人ってそもそもどれくらい居るんだろう?
ってことなのです。
スピードのあるデシジョンが求められていて、それができる人って実はひと握りです。大半の人は求められていないし、求められてもできない人ではないかと思うのですね。
むしろ、「これは何を言っているんだろう?」って考える訓練が必要な人のほうが圧倒的に多いような気がするんです。
「用事がある」世界は貧しい
「用事がある」ってなんだ?って思うでしょう。
「食べるために必死で働かなければならない」というのはまあ、いつも用事がある状態ですね。
食うためじゃなくても、経済を回すんだ!とかね。そういうことのために動いているのは用事がある人です。
別にそれをdisっているわけじゃないんです。人は活動のある面にそういうところを常に持っているものですから。でも、それだけで本当にいいのか?ってことです。
常に結論を求める姿勢は、結論がないものを思考から排除してしまうことがあります。用事が多いとそうなってしまう。これ、言い方を変えると「貧すれば鈍す」です。思考停止しているのです。
例えばビジネス書ばかり読んでいるとそういう状態に陥りやすいのです。楽をしすぎている。
消費するだけの人にならないために
ビジネス書って、ちゃんと考えられる人が、考えられない人に情報を消費してもらうために書かれている事が多いです。いつまでたっても消費側にいることになる。
消費するだけじゃなくて、作る側になるとしたら、とことんまで考えるクセが必要になります。
こういう訓練をしようと思ったら、やっぱり結論のない文章を読むのが良いのです。
組織のリーダーになる人には教養が必要ってよく言うじゃないですか。教養のもとになるものって、だいたい結論がないものなんです。ずっと考え続けていられるもの。
結論のない文章の中に「小説」がありますよね。もちろん全部じゃないですけど。
いい作品は、結論を読み手に預けていることが多いです。
読み手はそれを受け取って、困惑しながらも自分なりの結論を出すために考える。ときには何年も考え続けることもあります。
そういうのが考える訓練なのではないかと思うのです。
結論のない文章を書く
そして、さらに一歩進んで、自分が結論を出さない文章を書くというのがいいような気がする。
これ、やってみるとすごく座りが悪いです。きちんとまとめないと気持ち悪いことが多いです。なまじ文章を書いているとそう感じやすくなっていると思います。
読み手を信じて投げつけるというのは難しいものです。誰が読むかわからないわけですから。
「片葉の葦」って聞いたことがあるでしょうか?
なんとなく不思議だよね。ちょっと不気味な感じがするよねっていうことで、そもそもは「だからなに?」って訊きたくなるようなことなんです。こういう妙なものがあると、人はなぜかそこにストーリーを付けたがる。そして物語が出来上がる。
こういう投げっぱなしのもの、書けたら良いなと思います。
まあ、なかなか「まとめ」を作らないというのはハードルが高くてやりにくいけれど、いつもテーマとして考えていきたいと思っています。