引きこもりすぎると思考の鮮度が落ちていく
読書と編集 千葉直樹です

そもそも引きこもりなので
何度かコロナ禍自粛ネタを書いている。
すでに随分前から自粛というムードではなくなっている。それでもあまり外に出ずに引きこもっている。
そもそもがお家大好きで、保育園時代から外に行くのがとても辛かったくらいだ。サラリーマン時代を30年も過ごしたのは今では奇跡だと思っている。
それでも、めったに外に出ない暮らしを続けてみると、「これはちょっとまずいかも」と思うことも出てくる。ひとつは体力の低下。もうひとつは低刺激すぎて思考が低迷することである。
ブログを書くにしてもネタがいる。どういうわけか毎日続けようなんて考えているものだから、朝から夕方までネタ出しに呻吟することもある。
家にいる毎日は快適なのだが、もちろんあらゆる変化が小さいわけで、今日か昨日かわからなくなることも度々である。青天の霹靂みたいなものはとても望めない。
青天の霹靂が多いのはあまり心臓に良くない(別に心疾患を持っているわけではない)が、ちょっとした変化はやっぱりあったほうが良いと思うようになってきた。
根が怠惰だからひきこもっている。だからできるだけ怠惰に適度な刺激がほしい。それには「呆然」が良いのである。
呆然の活用のしかたは注意がいる
ぼーっとするのはあまり良いこととされていない感じがする。
家の中で椅子に座ってぼーっとしているのはあまりよくない。痴呆症と紙一重な感じがする。
が、僕はぼーっとするのが好きだし、そこから得るものはずいぶんあると思っている。
虚空を見つめてぼーっとするのも良いのだが、もう少し気の利いた使い方をする。pintarestでたくさんのイメージを見る。Netflixで大してみたくない映画やドキュメンタリーを見る。ただ目で追うだけである。それでもなにかしら頭に残っているものはあって、それが思ってもみなかった着想を産む。
しかし、この方式は脳だけを使ってしまうという問題点がある。第一に体力が落ちる。その上に脳を疲労させるとメンタルに支障をきたしかねないのである。
というわけで、多少体力を使いながら呆然とするのにいいのはベタだが散歩なのである。
本気で呆然としながら歩くと事故につながる。だが人間はよくできたもので自動運転モードがちゃんとある。
周辺の安全に気をつけながら歩くのに必要な意識は多くない。ほとんど無意識の世界である。
そんな自動運転モードで呆然と景色を見ながら歩くのである。
別に注視しなくても景色は頭の中に入っていて、色や形や風や温度や匂いや音の印象が残っていく。
それが刺激になってナニモノかが降ってくる。メモができるならしたほうが良いし、できなければとりあえず忘れても良い。
着想というのはそういうものであって、案外ふと思い浮かんだことがよく考えると深い意味を持っていることは多いのである。
まずそういうものだと信じる。それが大切である。
ほんの少し努力して外に出る
そう思ったので、外に出てみることにした。
歩いてみると望外に刺激が多いものである。
頭の中でカタチになっていく思考を感じる。
なるほど。散歩しながら考えるというのはこういうことなのだなと納得する。
今日はよく眠れそうである。